須川小学校の閉校式に当り、一言ご挨拶申し上げます。本日は須川小学校全児童の皆さんを始め、ご父兄の皆さん、更には同窓会・学区民の皆さん、町議会議員、教育関係者のご出席の下に、「須川小学校閉校記念式典」が行われます事を心から感謝申し上げます。また閉校に当り、学区民の皆さんが「閉校準備委員会」を組織し、須川小学校の歩みを「閉校記念誌」にまとめて、学区の全家庭に配布されたと伺いました。誠に意義ある取り組みであり、重ねて御礼申し上げます。
さて、須川小学校は明治6年9月に開校されてから、実に134年の長きにわたり、子弟の教育と地域社会の発展に貢献し、輝かしい歴史と伝統を築いてきました。
今、静かにその幕を閉じようとしておりますが、この学校で学んだ皆さんは、誰もが一抹の寂しさを覚え、その時々の事を懐かしく思い出されている事と思います。
地域の拠り所であった小学校の呼称は、新治村が誕生した100年前の明治41年に、新治村須川尋常高等小学校となりました。そして、戦雲漂う昭和16年には新治村須川国民学校に変わり、戦後の昭和22年には新学制によって、新治村立須川小学校となりました。
この間、校舎は幾星霜を経て現在地に移りましたが、大きな檜のある「白いバルコニーの小学校」として、学区民は元より村民から親しまれてきました。しかし長い歴史の中で、多くの人材を輩出した木造校舎も老朽化が進み、昭和61年には現在の校舎に生まれ変わりました。
改築に当たっては学区民の要望を受けて、旧三国街道「須川宿」と農村景観に配慮した切妻づくりの校舎となりましたが、今ではこの事が評価され、「たくみの里」を訪れる多くの人々に喜ばれております。
町村合併以前からここ数年来、新治地区では過疎化・少子化、更には学校施設の耐震強度の不足等から、教育効果を考えた施設整備と財政問題が議論されてきました。この問題は新生「みなかみ町」の各小中学校に共通する課題ですが、幸いにも新治地区では「新治統合小学校建設委員会」を始め、関係者皆さんのご理解とお力添えによって、3小学校の統合により「新治小学校」が建設されました。これに伴い、須川小学校は開校以来132年の歴史に幕を降ろし、平成20年3月31日をもって閉校する事になりました。
須川小学校は、新治村立須川小学校になってから、今日までに5,500人を超える人材を輩出しております。
卒業された皆さんは、町内はもとより、県内外の各地で活躍され、それぞれの地域の礎として、先達となって頑張っております。また次代を担う若者達は、勉学に励み、精進して、明日の国造りに意欲を燃やしております。
このように、皆さんが情熱と誇りを持って活躍できる原動力は、故郷への想いと「檜の須川小学校」で結ばれた絆であります。それだけに、須川小学校が閉校になっても、母校で育んだ友愛の絆を大切にしたいものであります。
閉校は、地域の方々や卒業生、そして児童にとっても寂しい事であります。しかし、須川小学校はみなかみ町の歴史に残り、今後は幼稚園と保育園を合わせた「認定こども園」に生まれ変わり、新たな歴史を刻む事になります。そして児童の皆さんは、新学期から「新治小学校」で大勢の仲間と一緒に勉強する事になります。伝統ある須川小学校で学んだ事を誇りとして、更に勉強やスポーツで心身を鍛えて大きく豊かに成長して下さい。
児童文集「檜の家」は、創刊から70有余年が経ちました。校庭にそびえる檜は、それ以前から今日まで、須川小学校を見守ってきました。この間、須川小学校のシンボルである檜には、生死を賭けた闘いがありました。
それは今から50年前の「伊勢湾台風」の強風で、真中から折れてしまいました。この台風は昭和の3大台風の一つでしたが、東海地方を中心に未曽有の被害をもたらし、村内では役場の屋根が剥されたり、各地で家屋や土蔵の屋根が飛ぶ等、大きな被害がでました。
この災難によって、檜は瀕死の重傷を負いましたが、決して生きる事を諦めず、須川の大地にしっかり根を張り、見事に生き返りました。そして、強く「生きる力」で立派なに成長し、須川小学校を守り続けてくれました。
檜は児童、そして学区民皆さんの宝物です。これからも心の拠り所として、大切にして頂きたいと思います。
結びにあたり、学区民皆さんのご健康と、児童の皆さんの大いなる成長をご祈念申し上げます。併せて、今日まで須川小学校をお守り下さいました全ての皆さんに感謝と御礼を申し上げて、閉校式に寄せる言葉と致します。














