みなかみ町長 鈴木和雄
牧水は旅と酒をこよなく愛し、日本中を旅して多くの歌集を残しましたが、「みなかみ紀行」の旅では奥利根の自然や村人の営み、更には同士との出会いを細かに書いています。
その一節(原文のまま)に、「…湯檜曽の辺りでも、銚子の河口であれだけの幅を持った利根が石から石を飛んで徒渉出来る愛らしい姿になっているのを見ると、矢張り嬉しさに心は躍ってその石から石を飛んで歩いたものであった。…」とあり、「月夜野村は村とは云え、古めかしい宿場の形をなしていた。昔は此処が赤谷川(あかたにがわ)流域の主都であったものであろう。宿を通り抜けると道は赤谷川に沿うた。…」と書いてます。
また、地図上に法師温泉を探し当て『…沼田の方角に近い処に視線をおとして来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の部落のあるのを見るだろう。サテも斯んな処に村があり、斯んな処にも歌を詠もうと志している人がいるのかと、少なからず驚嘆したのであった。…』とあります。
「みなかみ紀行」は、牧水が大正11年10月に、24日間に渡り長野県、群馬県等を旅してその一部を綴ったものですが、紀行文では最長のものとされ、利根川の水源を訪ねる意味で命名されたと伺っています。
この旅では沼田から、月夜野を通り湯宿から猿ヶ京温泉や法師温泉を訪ね、旧月夜野町では義人茂左衛門を知り、千日堂の香煙を見て、「…月夜野橋を渡ると直ぐ取つ着きの岡の上に御堂はあつた。田舍にある堂宇としては實に立派な壯大なものであつた。そしてその前まで登つて行つて驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあつたからである。そして附近には唯だ雀が遊んでゐるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の仕事に就く前に一人々々此處にこの香を捧げて行つたものなのである。一日として斯うない事はないのださうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衞門を思ひ、茂左衞門に對する百姓たちの心を思ひ瞼の熱くなるのを感じた。…」と書いています。
また、旧新治村の二人の社中の同士と出会い、その中の一人、浅地の松井太三郎氏とは、「君は何処で歌を作るのです、此処ですか。」…「何処という事もありません、山で々も野良で々も作ります。」と会話しています。
もう一人、猿ヶ京の林 銀治氏とは、湯宿温泉・金田屋旅館での出会いであり、「…仙臺からの歸途沼田の本屋に寄つて私達が一泊の豫定で法師に行つた事を聞き、ともすると途中で會ふかも知れぬと言はれて途々氣をつけて來た。そしてもう夕方ではあるし、ことによるとこの邊に泊つて居らるゝかも知れぬと立ち寄つて訊いてみた宿屋に偶然にも私が寢てゐたのだといふ。あまりの奇遇に我等は思はず知らずひしと兩手を握り合つた。」と書いています。このお二人は私もよく知っている方々で、懐かしく思い出します。
この旅では旧水上町は訪れていませんが、大正7年に水上町を訪れた時の思い出を綴っております。前出の湯桧曽の辺りで「…峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があってちいさな瀬を作りながら流れ出している、という風な処に出会うと、胸の苦しくなるような歓びを覚えるのが常だった。…」と川の上流に不思議な愛着を感じていたようです。
旅先では、各地に多くの歌を残しております。
新治村永井では、法師温泉に向かう道すがら、旧永井分校に立ち寄り
“ 山陰は日暮れ早きに学校の
まだ終わらぬか本読む声す ”
と詠み、その作品は永井宿郷土資料館前の石碑に刻んであります。
また、水上温泉の水上橋の袂(湯原)では
“ 大渦のうずまきあがり音もなし
うなりなだれて岩を
と詠むなど、みなかみ町の雄大な自然と父祖の繋がりを牧水文学にまとめ、今の世に伝えております。
私達はこれによって「谷川連峰・水と森防人宣言」が生まれ、新生「みなかみ町」が誕生しました。今、私達は90年近くの時を越えて、牧水の思いの共鳴し、「利根川源流の町みなかみ」として、自然を愛し、歴史を重んじ、地域文化を育てる決意であります。そして、若山牧水との関わりを我々の誇りにして、これを生かし、21世紀に飛翔する「みなかみ町」を創造する決意であります。
(平成20年6月20日)













